〜ひとり言(その一)〜
先日、埼玉県の高校英語教育研究会総会で、CLILについて話す機会がありました。よい機会でしたので、このブログで「ふりかえり」をさせてもらいます。
とりあえず願いは、私の拙い話を聞いて、一人でも多くの先生が、少しでもCLILらしいことを始めてくれたらうれしいと思っています。
講演を終えて、先生方の関心はやはり「明日の授業に役立つ」内容だと強く感じました。また、一人ひとりの先生が教師としてのビリーフを強く持っているとあらためて思いました。もちろん、私も含めてですが。
CLILは明日役立つとはいかないかもしれませんが、そのような強い個人のビリーフを変えるきっかけとなる可能性があると思っています。また、CLILは、明らかにこれまでと違う指導法を提供してくれるものではありません。多少時間がかかるし、明確にあるマニュアルどおりに授業をすればうまくいくというものでもありません。
しかし、これだけは言えるとおもいます。それは、とりあえず、やってみれば、おもしろい。そのことは、体験として言えます。
CLILの話をすると、必ず尋ねられる質問があります。当日も尋ねられました。
「Bilingualism、Immersion、CBIとどう違うのか?」
私はこの質問にどうしてもうまく答えられません。というよりも、「どうしてそのような質問が大切なのか?」という疑問が先に来ます。それは自分が体験して気づいたことだからです。
実は、この質問は、私がヨーロッパでしてきた質問と同じだからです。ヨーロッパの多くの人もうまく答えられません。ある人たちは無視します。それでもCLIL授業をしています。「CLILでもバイリンガル教育でもどちらでもかまわない。だけど、生徒が活動しているでしょう?どう見て?そんな質問はどうでもいいじゃない」というような対応が多かったです。
もちろん、CLILにはある方法論は存在すると思います。私は、それにはあまりこだわらないほうがよいと考えています。自分の教え方のスタイルを持って、それを追求していることのほうが大切だからです。
CLILの指導的な立場にいる人は、ある方法を示しますが、強制はしません。たとえば、ごく普通のCLIL教師は、ごく普通にある科目を英語で教えています。理科を英語で教えている、地理をフランス語で教えている、というような感じです。一見何も工夫がないように見えますが、そこには、ことばや活動への配慮が当然あります。これはイマーションかもしれません。あるいは、CLILかもしれません。あるいは、あえてCLILと言わない人もいます。どちらでもよいのではないかと思います。そこに「学び」があれば目的は達成されるからです。生徒が喜んで熱心に活動している実態があればよいと考えてはどうでしょうか。
アプローチはたくさんあります。教師がそれをCLILと考えて追求してみると、いままでとらわれていた英語指導に関するある呪縛から解き放たれるのではないでしょうか?CLILを実践するということは、そういうことだと考えています。つまり、
が教師の意識の中にあり、生徒が「為すことによって学ぶ(learning by doing)」ということを尊重する。自分の英語教師としての教え方を基盤に、ちょっと発想を変えてみる。
このブログを「CLIL SAITAMA」と命名して、少しずつCLILを発信します。
問合せは、笹島茂 sasajima@saitama-med.ac.jp へどうぞ。
先日、埼玉県の高校英語教育研究会総会で、CLILについて話す機会がありました。よい機会でしたので、このブログで「ふりかえり」をさせてもらいます。
とりあえず願いは、私の拙い話を聞いて、一人でも多くの先生が、少しでもCLILらしいことを始めてくれたらうれしいと思っています。
講演を終えて、先生方の関心はやはり「明日の授業に役立つ」内容だと強く感じました。また、一人ひとりの先生が教師としてのビリーフを強く持っているとあらためて思いました。もちろん、私も含めてですが。
CLILは明日役立つとはいかないかもしれませんが、そのような強い個人のビリーフを変えるきっかけとなる可能性があると思っています。また、CLILは、明らかにこれまでと違う指導法を提供してくれるものではありません。多少時間がかかるし、明確にあるマニュアルどおりに授業をすればうまくいくというものでもありません。
しかし、これだけは言えるとおもいます。それは、とりあえず、やってみれば、おもしろい。そのことは、体験として言えます。
CLILの話をすると、必ず尋ねられる質問があります。当日も尋ねられました。
「Bilingualism、Immersion、CBIとどう違うのか?」
私はこの質問にどうしてもうまく答えられません。というよりも、「どうしてそのような質問が大切なのか?」という疑問が先に来ます。それは自分が体験して気づいたことだからです。
実は、この質問は、私がヨーロッパでしてきた質問と同じだからです。ヨーロッパの多くの人もうまく答えられません。ある人たちは無視します。それでもCLIL授業をしています。「CLILでもバイリンガル教育でもどちらでもかまわない。だけど、生徒が活動しているでしょう?どう見て?そんな質問はどうでもいいじゃない」というような対応が多かったです。
もちろん、CLILにはある方法論は存在すると思います。私は、それにはあまりこだわらないほうがよいと考えています。自分の教え方のスタイルを持って、それを追求していることのほうが大切だからです。
CLILの指導的な立場にいる人は、ある方法を示しますが、強制はしません。たとえば、ごく普通のCLIL教師は、ごく普通にある科目を英語で教えています。理科を英語で教えている、地理をフランス語で教えている、というような感じです。一見何も工夫がないように見えますが、そこには、ことばや活動への配慮が当然あります。これはイマーションかもしれません。あるいは、CLILかもしれません。あるいは、あえてCLILと言わない人もいます。どちらでもよいのではないかと思います。そこに「学び」があれば目的は達成されるからです。生徒が喜んで熱心に活動している実態があればよいと考えてはどうでしょうか。
アプローチはたくさんあります。教師がそれをCLILと考えて追求してみると、いままでとらわれていた英語指導に関するある呪縛から解き放たれるのではないでしょうか?CLILを実践するということは、そういうことだと考えています。つまり、
content cognition culture (community) communication
が教師の意識の中にあり、生徒が「為すことによって学ぶ(learning by doing)」ということを尊重する。自分の英語教師としての教え方を基盤に、ちょっと発想を変えてみる。
このブログを「CLIL SAITAMA」と命名して、少しずつCLILを発信します。
問合せは、笹島茂 sasajima@saitama-med.ac.jp へどうぞ。