国際キリスト教大学(ICU)でのFDセミナー
CLILの背景や実践を話しました。私のCLIL実践がICUにどの程度役に立つのか分かりませんが、楽しく話させていただきました。今回の話は、CLILの基本的な理論と背景、それから、私自身の実践などです。
ICUということでNative speakerの先生が多く、それなりに自分の指導理論をすでに確立していると思います。私の話でCLILに傾倒するというようなことはないと思いますが、それなりに聞いてくれたようです。CEFRやCLILはヨーロッパのものですから、「なぜヨーロッパのものを日本に取り入れるのか?」という素朴な質問もありました。たしかにそうです。日本人はこれまでもそうですが、どうしても欧米かぶれのような部分は脱しきれないところがあります。私は決して欧米かぶれではありませんが、言われてみるとそうだと思いました。でも、CEFRやCLILは日本では有効だと思ったのが先です。
この機会に、私自身が、どうしてCEFRやCLILについて興味を持ち、日本への導入にかかわり始めたのかを少し振り返ってみました。
CEFRとCLILは密接に関係しています。CLILはCEFRがなければ、CBIやbilingual educationなどとほぼ同じアプローチとなります。CLILということも意味がないかもしれません。私は、CEFRの調査からCLILを知りました。ひょっとすると、そう考えてしまうのは、そのような出会いの経緯でそう思い込んでいるのかもしれません。が、CLILを実践することは、ヨーロッパのCLILをすることではなく、日本のCLILをすることです。これは、Do Coyleも言っていることですが、やはり、状況(context)が大切であり、柔軟であることです。
CEFRも同様です。外国語の到達度を明確にして、学習者が言語学習を自律的に進めることを支援するという発想は、とてもよい考え方です。CEFRも現在はCEFR-JやJapan StandardsなどとしてRLD(Reference Level Descriptions)化が始まっています。ヨーロッパから広がりを見せていて、Europeはすでに外れつつあるかもしれません。良いものは良いとして受け入れるという姿勢は、ただ欧米に追随することではないように思いますが、ここは冷静に考えていく必要がありそうです。
私の話はつたないものですが、CLILの話ができることはうれしいことです。この会を主催していただいた岩田先生、宮原先生、渡辺先生には感謝したいと思います。ICUが実践している英語(外国語)教育は、ほぼCLIL的だと思います。CLILというかどうかは、あまり問題ではなく、よい教育を提供すればよいと考えますので、当然、ICUは質の高い教育をしているわけで、そこで意見交換ができたことはありがたいことでした。
終わったあとのお茶の会で、お手伝いをしてくれた学生さんと話をして楽しかったです。若い人でも、考えている人はしっかり考えているなあとあらためて思いました。こういう若い人が、現状の日本の言語教育を少しずつ変えていく必要があります。応援したいですね。ぜひ、CLILに興味をもっていただきたいと思います。
その話の中でも出たことですが、英語と日本語の両方を授業で使うことです。つまりバイリンガルということですが、これに関してはいろいろな考え方があるんだと思いました。私は、その人が納得していればそれでよいと思います。英語だけを使って英語を指導する、ということも、うまくいけばそれでよいと思います。が、私は、自然にやりとりの中で必要だったら、日本語を交えてもよいと考えています。でも、英語を使う雰囲気は作らないといけないので、日本語ばかり使っているとやりにくいでしょうね。
このような「ことばの交差(translanguaging)」のことを、多くの人が取り上げているようです。従来のようなマイナスイメージではなく、プラスのイメージで考える方向性を示しています。CLILではこの「ことばの交差」を肯定的に考えていますが、そうではないと人ももちろんいます。意見が分かれることですが、私は、プラスに考えます。最近、この「ことばの交差」のことに興味を持っています。
いつも思いますが、このようにお話しの依頼を受けると、一番勉強になるのは自分だと思っています。ありがとうございます。これは、私の省察が少し高次になっているのかもしれません。そうなっていればうれしい。独りよがりにならずに、柔軟に考える。これがCLILの核心だと思います。また、それば私の言語教師認知の研究にもつながります。それは私自身の「教師のこころ」を見つめる機会です。これを探求したい。
いつものことですが、まとまりのないメモです。これは笹島のつぶやきです。誤字脱字、思い違いなどご容赦ください。